つくし日記 ~日々の暮らしと翻訳と~

書くこと、歩くこと、自然を愛でることが好き。翻訳の仕事をしています。

最近の仕事と散歩

先週から取り組んでいた少しだけ大きめの仕事をやり終えた。

好きな内容のものだったけど、取り組み始めたころに、今月はがんばりたいなと調子に乗って、差し込みで別の仕事(それほど大きくないもの)を入れるなどしていたら、そのあときつくなってきて、昼も夜もやるはめになってしまった。

でも、期限までに、満足のいくまでチェックをして無事に納品できたので、やり切ったという気持ち。ただ、体力的にちょっと無理をしてしまったので、やはり詰め込んではならないことを学習した。

仕事は、よく引き受ける好きな種類のものだったけど、一部、これまで仕事では取り組んだことのない読み手(年齢層)のものだったので、それが難しく、手間もかかり、でも言葉を選んで書く過程がとてもおもしろかった。翻訳ではなくて、一からこのような文章を書く仕事があるのなら、それもぜひやってみたいなと想像をめぐらせる。

6月っぽい写真が撮れた。いくら仕事に余裕がなくても、散歩には必ず行く。葉っぱの緑や空の水色、花々の姿を眺め、鳥の声に耳を澄ましているうちに、心がほぐれて気持ちに余裕が生まれる。

 

それにしても、この10日間ほど、気が張っていたからなんとかやれたものの、納品した途端にどっと疲れに襲われた。次の仕事のファイルはすでに受け取っているけれど、少し納期をうしろにずらしてもらったので、すぐに取り組む必要はない。安心して、とりあえず午後3時過ぎのおそい昼食をとりながら、休憩する前にどうしても観たくて、録画しておいた「アンメット」(いま一番好きなドラマ。「虎に翼」も一番好きだけど)を観た。そのあと、床にぱたりと倒れて、しばらくのあいだ目をつぶって休憩。

少し休んだら少し元気を取り戻したので、書いた。

雨上がりのアジサイ

暑い。

今月は家族の誕生月なので、きょうはケーキを買いに行った。

一緒に行くとたぶん遠慮するから、その人が用事で出かけている数時間のうちに買っておく。

一つは相手の好きなもの、もう一つは私の好きなものにしようと思ったが、相手用のを一つに絞ることができなくて、ふたつとも、相手の好きそうなやつにした。

私はケーキにはあまりこだわりがないので、何でもよい。

ひとくちもらえばそれでよい(と言いつつ、結局半分くらい頂いた)。

これが和菓子だったら、何としてでも、自分の好きなのを一つ選ぶのだろうが。

 

それにしても、ケーキに乗っかっているクリームがとけてしまいそうなほど暑い。
ケーキの箱にはドライアイスを入れてもらったが、徒歩10分の距離でも、炎天下でたちまちとけてしまいそうなほどに。

雨上がりに撮った涼しげな色のアジサイを眺めよう。少しでも涼しい気分になれるかな。


自然がつくりだす色ってほんとうに美しい。これは何色といえばいいのだろう。


大根の葉の近くの部分を思わせるような爽やかなきみどり色と、このごくひかえめなうすむらさきの組み合わせ。このうすい色のなかにもグラデーションがあるのが、たまらなく美しいと思う。


真ん中のぷちぷちが、ほんとうのお花なのですよね。ひらいているのと閉じているの、きみどりのとむらさきのがあるのがとても愛しい。



白状しておくと、これ以降は晴れの日のアジサイである。


上品でほれてしまいそうなほどきれい。


深い色がすてき。ふちどりがあるように見えるのもおもしろい。


一つの株でも色がさまざまであることの不思議。


白も爽やかでいいよね。


今も、せっせと取り組まねばならない仕事が続いている。まだこれが来週末まで続く。
でも、ひたすらやっていて少しくたびれてはいるが、それでも、仕事に打ち込めることはうれしいし、楽しい。

やっぱり書く

きょうの夕方に納品を終えれば少しほっとできるかな、最近は夕飯後や休日も少し頑張っていたからちょっとひと息つこう。あしたは本の返却期限で図書館に行かなきゃならないからついでにゆっくりしたいし、大好きなアジサイも見ごろだし。

そう思っていたら、すぐに開始できる仕事がやってきた。このところ小さいのが続いていたのだけど、久しぶりに大きめで内容も好みのもの。迷わず受注。続いて、別の翻訳会社さんからもう1件。ちょっときつくなるかな…と少し迷ったけど受注。

ちょっとひと息と思ったくせに、やはり仕事を依頼されるとうれしくなってしまう。
仕事は、頂けるときにはできるだけ引き受けておかなくては、と思ってしまう。
冬に備えてせっせと木の実を集める秋のリスみたいに。

不安症なので、何かあったらいけないと、あまり詰め込みすぎないようスケジュールはゆるめにしているほうだと思うけど(実際にほかの翻訳者さんがどんなふうにやっているのかくわしく聞いたことがないからわからないけれど)、もっとやってみたいという気持ちもある。もっとがんがん、精一杯やったらどれくらいまで行けるだろう。

でも絶対に質を落としてはならないし、スリルを味わいたくもないので、ぎちぎちにはしない。

一方、翻訳とは別の何か…生きるため食べていくためにできることを見つけ、その技術を身につけたいとも思っている。翻訳は、自分の信念を曲げずにできるものを、仕事を頂けるかぎり、続けられたらいいなと思っている。でももう一つくらい自分にできる何かを見つけて力をつけておけたなら、今後の人生、心強いと思うのだ。まぁ、何が起こるかわからんけどね。

 

悠長にブログなんて書いているより、次の仕事に手をつけたほうがいいことはわかっているのだけど、やっぱり書く。

仕事で毎日ずっと書いているわけだけど、翻訳の訳文を書くのとこれを書くのとはまったくちがうから。

というわけで、これからしばらく少しだけせわしくなるかもしれないけれど、たぶん、ここには書きにくるかな。

レッスン第2回

きのうは2回目のレッスンの日。

先週第1回のレッスンでは、新しいことを学ぶ楽しさを味わいつつも、「私はここにいてもいいのだろうか。この場にふさわしい人ではないのだろうか」などという思いがつきまとい「今後どうしようか。こんな気持ちで続けられるのだろうか」などという迷いまでも生じていた。

結局、なんだかんだ言いながらも、「やれるだけやってみよう」と、あまり力まないようにする感覚で2回目に参加。

 

1コマめも2コマめも、それぞれ前回と同じ先生だったので、自己紹介タイムもなく、その点ではそれほど緊張せずにすんだ。内容に関しても、前回の授業を発展させたような形だったため、一通りの流れはわかっており安心していた。

ところが、2コマめ、突如「1人ずつ前に出て3分程度スピーチをする」ことを求められた。人前に出て自分の話をする、これこそ私が最も不得手とすることである。

私は2番目。1番ではなかったことだけが救いである。

テーマは示されていたが、頭のなかがごちゃごちゃになって何をどう話せばいいのかわからずパニックに。

案の定、まったくうまく話せなかった。そんななか、ほかの受講生が「大丈夫よ、うん、うん、ゆっくりでいいよ」などと言ってくれているかのような温かい表情で相槌を打ってくれる。言葉に詰まると、助け舟を出してくれた人もいて、その優しさに涙が出そうになる。

ほかの受講生はみな、とても朗らかに楽しそうに話す。自分もそんなふうに話せたらいいのにと思う。

先生が、全体的に前回よりもよくなったと言ってくださった。
レッスンで先生からご指導を受けたことと、この1週間自宅でも毎日欠かさずトレーニングを続けていたことが、成果となってあらわれたのだと思う。とてもうれしい。

だが、繰り返しになるが、場違いであるような感覚は消えず、それが私を見かけ以上に苦しめているのだということも、自覚している。

先生がレッスンで教える目的には、単に受講生を指導するだけではなく、「よい人材を見つける」ことにもあるようだ。むしろそれを楽しみにされているような気さえする。

商品としての「私」は、先生の求めていらっしゃる人材とはかけ離れていることを自覚している。私はあっさりと切り捨てられてもしかたがない、とも思う。これはビジネス。

だったら、そんなこと言っていないで、これから人一倍がんばればいいじゃない、と思うかもしれない。だが、先生の求めていらっしゃるのは、過去いろいろと有益な経験をしたり、誰よりも負けないくらい楽しくて夢中になれること、語れることがあり、それをビジネスとして応用できる人材。さまざまな経験を重ねて熟成され人としての面白みが増し、味わい深くて熱い人。すなわち過去の積み重ねやオタク気質が鍵を握る。

私はどうしても、自分の過去を自分で認めることができない。

行き当たりばったりで、つなわたりのような人生。

そして、物事に「のめりこむ」ということがない。一応好きなものや好きなことはあるけど、語れるほどのものはない。そういうものを見つけようといろいろ手を出すものの、うまくいったためしがない。淡白な性質なのだ。
私の周りの人たちは、少なくとも1つ以上、話し出したら止められないくらい熱く語れるものを持っている人たちばかりで、そういうのをいつもうらやましく思う。どうすれば、何かにどこまでも熱中できるのだろう。

 

いまは、生きているだけで、動けるだけで、鳥のさえずりが聞こえてくるだけでしあわせだと思うけれど、ただそれだけだ。

 

自分がそれまでやってきたことに誇りを持ち、自分を愛し、人を愛し、自分のよさや自分の持っているものを、ありったけ、体ごと表現できるような人。おそらく、そういう人なんだ、この業界で求められる人とは。2回のレッスンでそのことをはっきりと悟る。

 

次のレッスンまで時間がある。

今は、今後どうすればいいのかよくわからない。

ただ、第2回のレッスンでさらにパワーアップしたトレーニングは、毎日欠かさずつづけるつもり。

自分のなかのリーダーと「ことば」

最近読んだ2冊。

『ほんとうのリーダーのみつけかた』梨木香歩 著 岩波書店

リーダーに関する本…例えば、集団のなかでリーダーにふさわしい人を見つける方法などについて書かれた本かなと思っていたが、まったくちがっていた。

「あなたの、ほんとうのリーダーは、そのひとなんです。(略)自分のなかの、埋もれているリーダーを掘り起こす、という作業。」「チーム・自分。こんな最強の群れはない。これ以上にあなたを安定させるリーダーはいない。」(p.29~)

リーダーは自分のなかにいる。著者は、そのリーダーを見つけだし、「自分を客観視する癖をつける」ことが大切だという。リーダー的役割をするのは「自分のなかの目」なのだと。

「あなたのなかで、自分を見ている目がある。いちばん大切にしないといけないのは、そしてある意味で、いちばん見栄を張らないといけないのは、いいかっこしないといけないのは、じつは、他人の目ではなく、この、自分のなかの目です」

この本は、若い人向けに書かれたもののようなのだけど、私に向けた言葉とも思われる箇所がたくさんあった(つまり自分は、精神的におとなになりきれておらず未熟であるということか…)。

他人の目を気にして、人からよく思われたいと思ってふるまってしまう自分。
そんなことばかりしていると、他人の評価でしか自分自身を確認できなくなる。自分を自分で認めることができなくなる。

友人が、「自分の心の声に従う」ということを教えてくれた。
大切なのは、他人の目や他人の声ではなく、リーダー的役割をする自分の目と自分の心の声だ。自分のことをいちばんよく知っているリーダー、いつも自分のなかにいてくれるリーダーのこと、いつも忘れないでいよう。

 

この本でもう一つ大切にしたいのが、言葉に関する部分。

「大きな容量のある言葉を大した覚悟もないときに使うと、マイナスの威力を発揮します。(略)実際はそれほどのことでもないのに大袈裟な言葉を使うと、実態との間に隙間ができるのです。そこにヒューヒュー風が吹き荒んで、虚しさを掻き立てる。言葉が、張子の虎のように内実のないものになってしまう。(略)言ってみれば、言霊を殺しているような状況です。」(p.15~)

私は言葉を扱う仕事をしている。翻訳作業をする際には、英語の原文と、日本語で書く訳文を、完全に一致させることは不可能だが、可能な限り近づけようとする。英語の原文の意図から離れてしまわないように。ぴったりと合う訳語を見つけよう、表現を見つけ出そうと日本語の訳文を何度も練り直す。

それでは仕事以外のときは? 
ここで記事を書くときや、日常で言葉を発するとき、自分の心のなかにある思いとは合致しない言葉を使っていることはないだろうか。

「どうか、一つひとつの言葉を蔑ろにせず、大切にしてください。(略)
自分の気持ちにふさわしい言葉を、丁寧に選ぶという作業は、地味でパッとしないことですが、それを続けることによってしか、もう、私たちの母語の大地を再び豊かにする道はないように思うのです。」(p.18~)

 

自分の気持ちにふさわしい言葉、できる限りぴったりの言葉を選ぶには、自分のなかに「使える言葉」が豊富にあることが理想である。蓄えておいたたくさんの言葉をうまく使いこなすことで、豊かな表現が生まれる。

目の前に、いつのものなのか記憶にないが、古い新聞の切り抜きが貼ってある。
「私のことばの限界が、すなわち、私の世界の限界である。ヴィトゲンシュタイン論理哲学論考』」
もっともっと世界を広げたいと、いつも思う。

***

もう1冊は、『孕むことば』(鴻巣友季子 著 マガジンハウス)。

エッセイ集。「子育てのお話のなかに、翻訳とか文学のことを盛り込んでかけませんか」と声をかけられてお書きになったものらしい(本書より)。著者の娘さん(1歳~4歳頃)の成長とともに発せられる言葉と、それについて考察する著者の文章が楽しくて、寝る前に寝床で読みながらつい何度も声を出して笑ってしまったほど。

「わたしのお腹から出てきた小さな生きものは、おかしなことばを次々と創りだす閃きの宝庫、ことばの宝島だった。翻訳のヒントまでもが大判小判のごとくざくざく埋まっていた。」(p.232)

閃きの宝庫! ことばの宝島! 翻訳のヒントがざくざく! なんて素敵なの。 

「以前、娘と過ごす日々を『神様にことばの建築現場を見せてもらっているようだ』と喩えたことがある。ていねいに足場を建て、ひとつひとつ木を組みあわせて、ゆっくりと出来あがっていく美しい大伽藍の建築現場には、しばし畏怖の念すらおぼえる。」(p.235)

建築現場の一部を、この本のなかで見せていただいた。何よりも、その一つひとつが本当にかわいらしいのだけど、そこには言葉を獲得するふしぎが隠されており、大変興味深い。世の中で子どもを育てている人たちは、この建築工程の一部始終を見ているわけですね。いいなぁ。

幼いころに自分もそんなふうに手に入れた一つひとつの言葉を死ぬまで大切にしたいし、自分の使える言葉をさらに増やしつづけ、もっと豊かに生きることができたら、もっと鮮やかに細やかに世界を見ることができたら、と思うのだ。

レッスン第1回

未知の世界へ足を踏み入れた6月1日土曜日。

レッスン初日。

約2時間×2コマ。あいだに1時間の休憩をはさむ。

これがなかなか、いや私にとってはめちゃくちゃハードだった。

予想してはいたが、いろいろと打ちのめされた。

技術面では、レッスン内容を吸収してやるべきことを完璧にこなしていけば、ある一定のところまでは行けるのだろうと思う。

だから、自分の「できなさ」にがっかりはしたものの、それを受け入れることはできたし、「できなさ」ゆえの特典も頂いたのだから、逆にその「できなさ」がありがたかったりもした。

だって、まあそうだろうとは思ってたけど、生徒10名のなかで最も「できていない」見本としてみんなの前に出されて、実験台にされたんだもの。

先生が少し手を加えるだけでこんなにも改善する、ということを、大勢の注目を浴びるという恐怖のなかでも、私は見事に見せつけた。ほかの9名が私を観察することでしか知り得ないそれを、私は自分の体で実感したのだ。これってものすごくラッキーなこと。

 

ただ、体験レッスンのときに感じた、そもそもここに自分がいるのは場違いなのではないかという気持ちは、やはり変わらなかった。

一緒に学ぶ仲間は、人間的な魅力のあるとても素敵な人たちだった。自分の言葉で自分自身のことを語れる、それまでの人生での興味や学びが垣間見えるおもしろみのある人たちだった。

このような人たちに出会えたことは幸せだ。一緒に学べることをとても嬉しく思う。

その一方、自分は何を持っているだろう、自分には何があるだろう。誇れるものが何もない。私はこの場にはふさわしくないのではないだろうか、などという考えが浮かび、自分がここにいることが申し訳ないような気さえした。

心身ともにへとへとで帰宅した。

特に1コマ目は体力も要するレッスンで、途中でついていけなくなった上に、全員に向けた先生のお話の中で自分にとってグサリと来る言葉があり大きな衝撃を受け、逃げだしてしまいたいような気さえした。

 

きょうは一日、抜け殻のような状態で過ごした。

 

いくら逃げ出したいと思っても、場違いであるような気がしても、興味のあることを、同じように興味のある仲間とともに、第一線で活躍するプロの講師から学ぶことが楽しくないはずはない。

帰り際、体験レッスンで一緒だった女性が声をかけてくれた。
「楽しみましょーね!」という彼女の笑顔に救われる。

 

この先どうするか、どうなるかはわからない。

やれることを、やれるだけ、やってみる。

いまはそれしか言えない。

あしたはどんな日になるのかな

午前中に一つ納品を済ませ、5月に納めなくてはならない仕事はすべて片づいた。
今週、あわただしかったので一息つくために近所の図書館へ行く。帰宅してから、来週月曜納期の小さな仕事も済ませて、納品できる状態にしておいた。

 

そうして迎えるあした。

いよいよやってきた6月。

あしたから、新しいことを始める。

未知の世界へ足を踏み入れる。

3月の下旬。体験レッスンから帰った直後は、もう行くまい、申し込むまい、別の方法を探ろう、と思っていた(こちら、体験レッスンについて書いた記事)。

興味のある世界ではあったものの、やはり自分とはかけ離れすぎているような気がする。無理。自分にはできない。レッスンに通うとして、うまくできない自分に毎回落ち込み、傷ついてみじめな気持ちを味わうことになるかもよ? 3ヵ月間も耐えられる? 人前に出ると声も身体もぶるぶると震えて何もかもうまくできなくなる私なのに集団レッスンなんて、大丈夫なの? 学ぶ以前の問題じゃない?

とても前向きには考えられなかった。

 

そんなある日のこと。

一通の手紙が届いた。

体験レッスンを受講したときに対応してくださった先生からだ。

そこには、体験レッスン時の私に対する率直で細やかな評価と、このような形でレッスンを進めていけばこんなふうによくなるという具体的なアドバイスやめざすべき方向がとても丁寧に示されていた。一人ひとりに向けたこのような対応と、その力強くあたたかい言葉に心を揺さぶられる。

 

やってみることに決めた。

あれだけ「もう行くまい」と強く思っていたのに、自分の心というものは何らかのきっかけでがらりと変わるものだ。単純だよね、おもしろいよねと笑ってみる。

 

ただ、決意はしたものの、申し込んでからも、やはり不安は次々と湧き出てくる。

不安や恐怖が8割、楽しみやわくわくが2割。

 

ところが不思議なことに、その日が迫るにつれて楽しみやわくわくの気持ちが増してきた。

いまは、不安や恐怖と、楽しみやわくわく、半々といった感じ。

あしたはどんな日になるのだろうか。

まったく想像がつかないけれど、楽しみにしていよう。

 

優三さんがかけてくれた言葉を心のなかでかみしめながら強く生きようとするトラちゃんの姿を支えに(いきなり『虎に翼』。毎日力をもらっている)、私もあしたから、やれるだけやってみよう、と思う。