新聞で気になった記事を切り抜くのが好きである。
実家にいたころは、当時中日新聞に掲載されていた「けさのことば」が楽しみでしかたなく、毎日切り抜いて集めていた。処分してしまってもう手元にはない。なぜ処分してしまったのだろう、と後悔している。
先日、「虐待する親 回復を支援」という見出しで、民間団体の「マイツリー」さんを紹介する記事が掲載されていた(東京新聞 2024年7月17日朝刊)(こちらでも読めるが途中から会員限定)。
(右下に重ねておいてあるのは、以前このブログにも書いた「ふらっとヨガ」のイベント当日の新聞記事。米粒くらいの大きさで私も写真に写っていたのでうれしくて切り取っておいた 東京新聞 2024年7月10日 朝刊)。
「虐待する親 回復を支援」の記事がなぜ目に留まったのかというと、つねづね、このような活動や対応がもっと増えるといいなと考えていたからである。
児童虐待のニュースでは、なぜ虐待を防げなかったのか(児童相談所の対応は適切だったのか)ということに焦点が当たることが多い。そのような子どもをどのように見つけて、どのように守るか、ということに。
そのような体制を整えていくことはもちろん、きわめて重要である。
一方、虐待する側の親の支援に目が向けられる機会は、それほど多くないのではないだろうか。
マイツリーは、「怒りの裏にある不安や寂しさといった心の傷がもたらす感情と向き合う。瞑想や呼吸法で身体感覚にも働きかけ、『私は大切にされていい存在だ』と気づくことで心を整えていく(新聞記事より)」場所なのだという。
親にも、居場所が必要なのだ。
子どもへの暴力を止められず、誰にも相談できない状態のなかで、自分と同じような気持ちを抱えている人に出会い、専門家を交えて話をしたり心を解放したりするプログラムを受けられる場所。そのような場所で自分の感情をやりくりする方法を学び暴力を抑えられるようになれば、虐待自体を未然に防ぐことができるようになる。親子ともに苦しむ人が減るはずである。
いじめや非行(問題行動)などにも同じようなことが言えるのではないか、と思う。
いじめについては、いじめる側が悪い、いじめは絶対に許されないということは明確であるが、私自身、学校生活や社会生活をとおして、いじめる側への働きかけが少ないように感じてきた。いじめる側が、虐待する親などと同じように、家庭や学校や社会の中で誰にも言えず心にためこんでいる負の感情を制御できなくなっている可能性もあるのではないだろうか。もしかすると、愛情や居場所がほしくてたまらないのに見つけられない状態で、その不安やさみしさが誰かをいじめるという手段で発散されているのかもしれない。
いじめられる側へのケアはもちろんきわめて重要だが、いじめる側にもそれと同じくらいのケア、自分のしたことを自覚させるだけではなく耳を傾けて心の声を引き出すケアが必要なのではないかと思う。非行(問題行動)などにも同じことが言えると思う。
先日の記事にも書いたが、いま『母親になって後悔してる』(オルナ・ドーナト著、鹿田昌美 訳、新潮社)を読んでいる。ここにも、「母親になった後悔」を誰にも打ち明けられないどころか、自覚することすら許されない社会に居場所がなく苦しむ人たちの姿がある。
誰にでも居場所は必要である。
精神疾患を抱えている私の場合は、患者会や先日の「ふらっとヨガ」、あとは、そのような実際の会合などではなくても、インターネット上で同じ症状の人とやり取りすることなども救いになった。
そのような居場所が増えていくこと、
すでに存在する居場所がもっと活用されていくこと、
そのような居場所が必要な人に、その情報が届くこと、
そして、一人でも多くの人の苦しみが少しでも和らぐことを祈りつつ、自分もできることをしていきたいと思う。