つくし日記 ~日々の暮らしと翻訳と~

書くこと、歩くこと、自然を愛でることが好き。翻訳の仕事をしています。

帰省、5年半ぶりの5日間 (2) 懐かしのキャンパスへ

帰省2日目。

学生時代の友人と、私たちの母校である大学へ行く日。

友人が車に乗せて連れていってくれるというのでお願いすることに。

待ち合わせ場所である友人の自宅の最寄り駅までは、電車で行く。

その駅と、私の実家の最寄り駅を結ぶ電車は、通勤通学時間帯以外は30分に1本、さらにお昼どきには1時間に1本になってしまう単線の路線で、特定の駅でたびたび向かいの電車と待ち合わせをしながらゆっくりのんびり運行する。

ものすごく久しぶりに乗ったので、乗り降りの際には自分で「開」ボタンを押さないと扉が開かないことや、ワンマン運転の場合、無人駅では運転士近くの一番前の扉しか開かないから、乗り降りする際には前もって1両目車両の一番前まで移動しておかなくてはならないことをすっかり忘れていた。

田舎の車窓から、田舎の風景を楽しみながら約30分。

友人は、駅のロータリーで待っていてくれた。
長かった髪をばっさり切っていて驚く。

誕生日に手紙を出しあったり年に数回程度メールでやり取りしたりしていた友人だが、会うのは約7年半ぶりである。でもすぐに時間は巻き戻り、学生時代のように会話が弾む。山々や川に囲まれたのどかな道を車で走り抜けていく爽快感も存分に味わわせてもらった。

1時間程度で大学に到着。


卒業したころ(約23年前)から、キャンパスは大きく変わった。
なくなった学部があり、新設された学部がある。
大学病院+それにかかわる学部がこの場所に移転し、建物の数が格段に増えていた。

うす汚れたサークル棟も変わらずそこにあり、私の所属していた人形劇サークルも健在でほっとする。

学内にいるやぎや牛にも会いたかったのだが、コロナの関係で関係者以外は立ち入りできないようになっていたのは残念である。

 

友人と私の学び舎、教育学部の校舎。
ここから少し離れた場所には、音楽棟や美術棟、体育館やプールなどもあり、教員免許の取得に必要な授業を受けるため、せっせと行き来したことを思い出す。

友人と私は、その教育学部のなかでも「教育学」という9名だけの小さな学科に所属していた。小学校教諭の免許さえとれば卒業は可能だったけど、ほかの学科に入り込んで単位をとれば(+教育実習も必須)中学校教諭の免許もとれる。そのため、友人とは国語科の授業も一緒だった。さらに単位をとれば取得できる幼稚園教諭の免許にかかわる授業も一緒だったと思う。

もともと教員になるために教育学部を選んだわけではない私はそれくらいだったけど、教員をめざしていた友人は、そのほかに障害児教育や司書教諭などにかかわる授業もとっていた。友人は、教育学のなかで人一倍まじめで頑張り屋さんだったように思う。

晴れて友人は、県の小中学校と特別支援学校の教員になり、勤続期間はすでに20年を超える。

話を聞いていると本当にいろいろ大変なことがあるようだが、それでも先生を続けていることを心から尊敬する。長い経験から、先生として自分が進みたい方向をみつけ、その道をしっかりと歩いている姿に感動した。

教員になるつもりはなかったが、子どもにかかわることに興味津々な私は、現在の教育現場の状況について、ここぞとばかりに友人を質問攻めにしてしまった。

学校や子どもの様子、特に支援が必要な子どもについて、校長先生によって学校は変わるのか、電子化(電子黒板など)について、保護者とのかかわり、スクールカウンセラーについて、先生同士の協力体制、修学旅行や工場見学のこと、忙しすぎる問題(残業や休日出勤事情)、教員が抱える精神疾患、現在の教員の採用事情…などなど。

知りたい子どもをめぐる問題について、あまり突っ込むことはできないなと思いしなかったけれど「スクールカウンセラーさんがいないとやっていけない、(予約制の)カウンセリング枠はいつもすぐに埋まってしまう」と言っていたので、「誰かに話を聞いてほしい、相談したい」気持ちを抱えながら学校生活を送っている子どもや保護者はあふれるほどに多いということ、そしてそれを受け止める場所や専門家がまったく足りていない状況が想像される。

帰り際に友人が手渡してくれたもの。地元の店のお菓子だという。

しっとりとして味が濃くてとてもおいしかった。

 

懐かしい場所で、当時のことや今のことを存分に語り合い、とてもうれしい時間を過ごすことができた日だった。