つくし日記 ~日々の暮らしと翻訳と~

書くこと、歩くこと、自然を愛でることが好き。翻訳の仕事をしています。

本から本へ つながる読書

先日、1冊の本を読み終えた。

『語れ、内なる沖縄よ わたしと家族の来た道』(エリザベス・ミキ・ブリナ 著 石垣賀子 訳)みすず書房

沖縄出身の母とベトナム帰還兵である白人のアメリカ人の父とのあいだに生まれ、アメリカで育った著者。アジア人の母を軽んじその背景にある沖縄も長年遠ざけてきたが、歳を重ねさまざまな経験をするなかで、しだいに母に対する思いが変わっていく。そのような著者の半生が、沖縄の歴史とともに自身の言葉で綴られている。

著者の語りに引き込まれてぐんぐんと読んだ。何度も心を大きく揺さぶられる。リアルに描かれる娘と母、娘と父、母と父、そのほか著者と著者にかかわる人たちとの関係。そのなかで、アイデンティティを含めさまざまな葛藤に苦しみながらも、気づきを得て自身や家族に向き合おうとする著者の姿に強く心を打たれた。そのほか沖縄に関する記述など、多方面で学ぶこと、考えされられることの多い本であった。

この本を読んでいるときに頭に浮かんだものがある。

私の本棚にある3冊の本。

本棚から引っ張り出してきてパラパラとめくってみる。

『「ハーフ」ってなんだろう?』(下地ローレンス吉孝 平凡社)は、数年前、たしか書評に出ていたのを見て購入した。衝撃を受けたのは、「ハーフ」や「ミックス」と呼ばれる人々の人権が守られていないこと、そのような行為を私自身が過去にしていた事実に気づかされたことである。ハーフと呼ばれる人に対して、初対面でなにげなくかけてしまいがちな言葉(「どこから来たの?」「何語をしゃべれるの?」「日本に来て何年?」など)が相手に対してとても失礼だということ、精神的負担となっていることを知る。「ハーフ」に限らず「あらゆる人々は、ジェンダーセクシュアリティ、経済状況、障害、年齢、国との関係、民族的・人種的背景など、さまざまな要素の交差する社会的立場に置かれていて、実際にはそれぞれ複雑で多様な経験をして(p.77)」いることも忘れてはならない。

『語れ、内なる沖縄よ』を読んだとき、差別やアイデンティティなどに関する悩みを抱える「ハーフ」と呼ばれる多数の人たちが、この本で体験をありのままに綴ってくれていたことを、ふと思い出したのだった。

 

『おきなわ 島のこえ ヌチドゥ タカラ<いのちこそ たから>』(丸木俊 丸木位里 小峰書店)。学生時代、沖縄の佐喜眞美術館に行った際に購入した本。大学の卒業論文でお世話になっていた小学校の先生(作文教育の研究のため、そのような教育を実践する先生のクラス[+先生のご自宅]へ通い、調査させてもらっていたのだ)から、「沖縄へ行ったら佐喜眞美術館に行きなさい」と勧められたのだ。美術館で丸木俊丸木位里の絵を目に焼き付けつつ、忘れないようにと思ってこの絵本を買った。

『語れ、内なる沖縄よ』を読み、しばらく本棚の奥で眠っていたこの絵本を再び広げられたことを、ありがたく思う。

 

『海をあげる』(上間陽子 筑摩書房)。沖縄の現実や、沖縄で暮らすというのはどういうことかを知らずにいた自分、タイトルにもなっている「海をあげる」という言葉に胸が締め付けられる思いがした本。

『語れ、内なる沖縄よ』のなかの基地問題にからむ生々しい記録と上間陽子さんの率直な言葉が頭のなかで結びついた。読み返さなくては。

 

最後にもう1冊。こちらもじっくり読み返したい。

『ぼくはイエローで、ホワイトで、ちょっとブルー』(ブレイディみかこ 新潮社)

学ぶことの多い本だったが、同時にとてもおもしろかった。日本人として日本に暮らし、凝り固まった考え方にとらわれがちな自分の価値観をぶちこわすために、定期的に読み返す必要があるな、と思う。続編も読まなくては。

 

読んだことのない本を次々と読むのもいいけれど、1冊の本からこのようにつながっていく読書、読み返す読書もいい。そこからさらに関連のありそうな本をみつけて読んでいくことで理解を深め、自分の言葉で語れるようにする作業も重要であろう。こうやって世界を広げてくれる「本」という存在に感謝したい。