つくし日記 ~日々の暮らしと翻訳と~

書くこと、歩くこと、自然を愛でることが好き。翻訳の仕事をしています。

自分は人の役に立っているのか

人は、ほかの人に何かをして喜んでもらえたとき、大きな喜びを感じる。その喜びの大きさは、自分自身にうれしいことが起こったときの喜びと同等か、もしかするとそれ以上かもしれない。逆に、自分が役立たずだと思うとき、大きな悲しみを感じる。

このまえの日曜。午前中に夫と家事や買い物、散歩も済ませ、午後はそれぞれゆっくりする時間だね、と話していたところで電話が鳴った。夫の父からだった。腰がひどく痛み動けないという。夫の母は運転ができない。私もいまは運転を長いことしていない。ということは、夫しかいない。すぐに(といっても高速を使って30分強で)駆けつけて義父を休日外来へ連れていってくれた。幸い重い病気などではなさそうとのこと。

ことし同じようなことは2回あった。ちょうど夫の長期休暇中(5月の連休と8月の夏休み)だったのでいずれも夫が対応してくれた(そのうち1回は救急車のお世話にもなった)。だが、夫は毎回、ゆっくりできるはずの時間を緊張状態で過ごすことになるわけだ。

こういうとき、自分は何もできないのだなと申し訳なく思う。役立たずだなぁと思う。体調の回復を祈ることと、せめて帰宅したらすぐに夫が体をあたためられるよう風呂を沸かしておくことくらいしかできない。

今後、このようなことは増えるだろう。平日、夫が仕事に行っている間にこのようなことが起こると困る(いつか自分も運転を再開しようかなとも考えているが、すぐには難しい)。私の実家では現在、父の面倒を(運転を含め)母と姉がみてくれているのでありがたく、やはり自分は何もできていないため申し訳なく思う。

冒頭にも書いたが、自分が人の役に立っていないという感覚はとても苦しい。

強迫症強迫性障害)の症状が最も強かったとき、あまりに自分が役立たずすぎて、いや、役立たずなどころか迷惑しかかけられなくて、消えてしまいたくてしかたがなかった。

自宅でまったく動けなくなり(動くと手洗いか消毒かシャワーを何時間もし続けることになる)、家事も私の面倒をみることもすべて夫がしていた。夫はいそがしい仕事を終え帰宅したあと、仕事のストレスに加えて私によるとてつもなく大きなストレスを抱えながら、夜中まで家事をしていた。私が少し動いて(例えばトイレに行くとかクローゼットから着替えを取り出すとかで)失敗し、シャワー、洗濯を繰り返すことになり、夫の仕事を際限なく増やしてしまうこともあった。

自分はどうしようもなく最低の人間だと思っていた。

 

その後入院。退院後は動けるようになり、家事もできるようになった。

でも、自分がどうしようもなく役立たずだという思いは消えなかった。

不安すぎて夫に「私は役に立ってる?」と問いかけると、Yes/Noではなくこんな答えが返ってきた。

「役に立つとか立たないとかいう考え方は好きではない。役に立つとか立たないとかではなくて、いてくれるだけでいい」。

この言葉をずっと忘れないようにしようと思った。

 

それでも、いまでも、友人などほかの人に対して「私はこの人の役に立っているのだろうか」と考えてしまうくせが抜けない。対等につき合えている人に対してはこういう思いをもつことは少ないが、対等ではないと感じてしまうと「役に立っていないな」という思いが強くなる。そういう場合は、自然に距離ができていくのかもしれない。

なんだか話が飛躍してしまったようにも思うが、家族の健康を願うとともに、何か起こったとしても、自分がそのときにできることを精一杯やること、そして、自分のできることを見つけて増やしていくことも必要だと思っている。