最近、夫がまたとてもいそがしそうである。
心身ともに疲れている様子が目に見えてわかり、朝、玄関で「いってらっしゃい」と送り出すのが少しつらい。でも一番しんどいのは夫である。いまがピーク。あと少し。
「無理しないで」を繰り返してしまう私。夫は「そんなこと言われても、いまはがんばらなきゃいけないとき」「生活がかかってるんだから」と心の中でつぶやきながら歯を食いしばっているのだろう。無理しなきゃならないときもあるにはある、とは思う。それでも家族としてはやっぱり無理してほしくはない。でも、中途半端な「無理しないで」は夫にとって逆に苦しい言葉なのではないかとも考える。おつかれさま、いつもありがとう、のほうがいいのかな。難しい。(ほんとうにまずいときは止めるつもり)。
自分にできることをして見守るしかない。
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先日、友人から電話があった。
友人に起こったとても悲しいできごとについて話してくれた。
うん、うん。そっか。うん、うん。……。
ほかに言葉が見つからない。出てこない。
友人がどうしようもなく深い悲しみに沈んでいることはわかるのだけど、私はその悲しみを体験したことがない。その悲しみがどんなものでどれほどのものなのか私にはわからない。
いますぐに友人のところへ飛んでいけたら。
なにも言えなくても、ただそばにいられたら。
でも、これも私の思い上がりかもしれない。友人はしばらくそっとしておいてほしい、家族以外には会いたくないと思っているのかもしれない。いまはただ静かに時間を過ごすことが一番なのかもしれない。もしまた私を必要と思ってくれる場合があるのだとすれば、向こうから連絡してくることもあるのかもしれない。それは彼女が決めることだ。
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いま、『愛着障害の克服「愛着アプローチ」で人は変われる」』(岡田尊司、光文社新書)という本を読んでいる。
そこに出てくる「安全基地」という言葉が気になっている。「安全基地」、心地よい響き。安全基地になることとは、「その人にとっての安心感の拠り所となる」(p.174)ことである。
愛着に関する本なので少し焦点はずれるが、この「安全基地」の考え方は、身近な人と関係をつくるうえで、特に人の話に耳を傾ける姿勢という点で大変参考になる。
安全基地になるための条件が丁寧に書かれているが、特に気になった部分は、例を挙げながら繰り返し強調されている「反応のズレ」である。
「本人が、ポロポロ泣きながら、『死にたい。すぐに殺して』と言ったとしよう。真面目な人は、「バカなことを言ってはダメだ。きみを殺したりできるわけがない。そんなことをしたら、殺人罪になってしまう」などと、本人の発言を否定し、理屈で必死に説得しようとするかもしれない」(p.191)。
「困っていることや苦しんでいる話を聞くと、すぐに問題を解決したくなる人は、安全基地になりにくい。ことに、本人を押しのけて、答えや解決法を言ってしまう人は、親切なことをして役に立っているつもりかもしれないが、じつは邪魔をしているのである」(p.193)。「説教をしたり、持論を述べたり、アドバイスをしたりするのも、一方的な押し付けに過ぎず、応答になっていない。こちらがいいことを言っているつもりでも、相手からするとズレた反応でしかない」(p.194)。
そういうことだ。これは私自身にも心当たりがあるような気がする。話し手、受け手、どちらの場合も。このような反応をしてしまった罪悪感や反省の思いも、このような反応を返されたときの「嫌悪感や反発」(p.196)、「心を開こうという気にはなれない」(p.196)気持ちも、どちらもよくわかる。
基本は求められたら応えること。どうすれば相手との「反応のズレ」を最小限にできるのか、その方法がこの本に書かれているので、学んで実践してみたいと思う。
ちなみに、この本にはほかにも、私の興味あるマインドフルネスについてや、もしや私の性質を見抜かれているのか、この本は私に向けたものなのかと勘違いするほど興味深いことがたくさん書かれていた。「愛着」、今後もさらに学び掘り下げて考えてみたいテーマである。
まとまらなくなってきたが、大切な人とかかわるうえで、「安全基地」という言葉、忘れずにいたい。
自分も誰かの安全基地になれたらと思う。